コミュの仕立て屋さん ~表現のお直し 承ります~

「ナイス表現!」とかを拾っていったり考えたりするブログ

話盛りの君たちへ ~高校生のうちに高めてほしい言葉力とは~

本屋で買ったある本を読んだ。

帯に書いてあった「こんな共感する本ない!!」

ああ、まさしくその通り。私の感情をぴたりと言い表している。

いいなあ、人にこんなに共感してもらえる本書けたら…。

よし、書いてみるか。

 

 

自分の気持ちを赤裸々に語ったら、絶対同じ気持ちの人はいるはず。

うん、思ったより簡単そうだな。

 

 

という短絡思考で小説でも、と書き出してみる。

大雑把なストーリーを考えて、キャラクターを設定して…。

あとは登場人物に喋ってもらえばいいか。

よし、行ってみましょう本編!

 

 

……んんん。難しい。

書き出しわずか数ページ未満で手は止まってしまった。

 

 

まず冒頭数行でいきなり頭を抱えた。

どうも不自然。描写が気に食わない。

言葉をマイナーチェンジする。順番を変えてみる。

全部消して新しい導入を考える。また悩む。

 

 

上手く書き進んできたと思って、いざ心情描写を書いてみようとする。

いや、これじゃ上手く伝わらない。

言いたいニュアンスが言い表せてない。

こんなニセモノっぽいセリフは喋らない。

こんなんじゃ共感は愚か、何を表したいのかすら理解してもらえない。

 

 

んんん。想像以上に難しい。

どうするか。うん、やめよう。私には向いてなかったんだ。やめよやめよ…。

 

 

 

 

 

…というような過程をおよそ5回は繰り返しました。

そのたびに私は世の作家先生たちの偉大さを思い知ったのです。

1冊書き上げるってすごいことだ…。

 

こんなに頭にはイメージがあるのに。書きたいことは明確にあるのに。

言葉にするってなんて難しいんだろう。

 

誰しもこんな経験は身に覚えがあるのではないかと思うんです。

何も文章に文字化することに限らず。

「自分の内にあるものを、言葉にするのって難しい」という経験が。

 

自分の中にあるときは割とはっきり形を持つものなのに、

人に伝えようとしたときの伝わらなさ。

語りで伝えようとするときでも、比喩や擬音、経験談を駆使して、時には手振りや口調で演出してやっと、「あー、何となくわかったかも」。こんなもどかしい経験はないですか??

 

 

 

と、高校生のみなさんに問いかけてみると想定したとき、 「待てよ、『そんな経験、ないよ?』って言われる可能性は大いにあるぞ…」と。思い返せば高校生ライフって…。

 

「なんか、こうさ、そーゆーの見ちゃったときの『うわ~~』ってなるこの感じ。しんどってなるよね」

 

「あ~、めっちゃ分かるわそれ。辛いよなあ」

 

文字にしちゃうと、なんだこれは、という感じなんですが、

これって普通に毎日してる会話内容ですよね。

冷静に見てみたら、なんでそんな会話で伝わってるんだ、と不思議ですね…。

 

 

一見、こんな言葉遣いでも伝わってるように聞こえるし、共感を得られている風ですよね。

 

でも、私的に言えばこれは「自動的共感」といえる反応。

高校生なんだから、おかれている状況とか背景とかにそんな大差があるわけじゃないし、たいていの友達は同種の子たち。お互いそれを理解したうえでの会話。となれば、自分が経験したことがある似たような記憶を思い返し、私はたしかあんな気持ちだったな、この子も同じだろう、うんうんわかる。と合わせることなんて簡単。

 

 

その子の気持ちが伝わって、心から共感したとは思えない。

 

友情なんて冷たいもんなのよ、なんて悲しいことが言いたいわけじゃなくて、

これじゃ「生の感情」は伝わってないよってこと。

毎日のちょっとした会話なんてこれくらい軽くていいとは思うんだけど、

でもいつまでもこんな言葉遣いをしているわけにはいかないです。

 

 

私は言葉とか脳の専門家ではないから何とも細かいことは言えないんだけれども、

「言葉力は毎日使わなければ劣化する」ということは身をもって知ってます。

ちなみに言葉力、なるものは私の造語で、要は自分の持っている言葉で適切な表現がで

きる能力のこと。

だから語彙力、とはちょっと違います。

自分の言葉で伝えること、に重点を置いているというのがポイント。

 

劣化についての例として、やばい、という言葉を挙げてみます。

大人も子供も幅広く広まっている印象があり、良い意味にも悪い意味にも使える大変便利な言葉。特に大学生なら、「あそこの大学は研究の設備がやばくて、やばいくらい行きたいんだけど、倍率が結構やばくて、私英語の出来なさがそろそろやばいから勉強しよ」これ聞いても普通に何言ってるか分かっちゃうんですよね。

 

 

友達との会話なら全然いいけど、

これをこのまま先生に伝えたら…それは、本当に「やばい」。

 

 

じゃあ咄嗟にちゃんとした言葉を引っ張り出して、適切な応答ができるか!

と言われると、意外に難しくないですか?

 

 

言葉力は一朝一夕では伸びません。

勉強すれば増える語彙力とは違う。

毎日の「訓練」の積み重ねがないと、すらすら言葉は出てこないもんです。

 

 

でも訓練って何をしたらいいんだろう?

残念ながら私には画期的な方法というのが分からないんです。

 

 

ただ一つ有効だと思うのは、自分となるべく違う人と話すこと。それは、

大人と子供。

男性と女性。

社会人と学生。

既婚者と未婚者。

長男と末っ子。

先生と生徒。  

 

例えば毎日会社で働いているお父さんと、部活に勤しむ女子高生。

いくら血が繋がっているとはいえ、その共通項は家族というだけに過ぎない。

一緒に住んでても、びっくりするくらい生活がかぶらないってことはあるあるな話。

 

 

そんな二人が何かを伝え合おうとしたとき。

きっと1回の言葉のやり取りでは言いたいことの半分も伝わりません。

先ほどの女子高生同士のやり取りのような「自動的共感」は絶対に作動しない。

言葉遣いも生きてる世界の常識も違いすぎるから。

 

ああ、この表現ではこの人には伝わらないのか、と思ったとき。

ここで仕方ない、と言って投げ出さないで、自分の言葉で伝える意識を持つこと。

例えば、もう少しオノマトペ的に表現してみようか、古めの言葉を使った方が感覚は伝わるかもしれない、幼稚園生に説明するぐらいの気持ちで嚙み砕いてみようか。

といった感じ。

 

 

でも意識を持て、と言われてもなかなか難しい。

だから深く考えずに実践しまくればいいと思うんです。

少しでも自分の言葉で話せる機会を増やした方がいい。自分の言葉を聞いてくれる人を増やした方がいい。

 

 

だからむしろ持つべきなのは「言葉を使う機会を増やす意識」かもしれないですね。

言葉をしっかり交わせる相手がどんどん身近に見つかるのが理想的です。

そうすれば日常で言葉を交わせる頻度がぐんと高まりますもんね。

場数がものを言うってほんとです。慣れてる、って強いんです。

 

 

すごく私の個人的な感覚でだと、2、3日に1回はそういう機会がないともやもやします。訓練の意識のおかげか、言葉は結構たまるようになってきたんですが、それを出せる機会がないともったいないような気持ちになる。

別に真面目な内容とは限らないんですが、そういう時話したくなる人が何人かいます。

その方たちは絶対に「自動的共感」を作動させない人達で、むしろ私の言葉で理解できないことを徹底的に追及してくる。答えに窮することもしばしば。すごく貴重な方々です。

 

 

言葉の訓練の視点から考えると、(もちろんそれだけじゃないけど、)理想的な環境だなあ、と有難い限り。自分にとってのこんな存在を増やそうとしていくのが、大事なんじゃないかと思うんです。

 

 

最後に伝えたいこと。

 

ここまで読んで、正直今の私にそんな力必要ない、もしくはそんな力の欠如は感じないって感じる人はいたと思う。 だから高校生にとってすごく身近な例を当ててみたい。

 

 

小論文が書けない。英作文が出来ない。

来る受験においてぶち当たるであろうカベ。

問題はきっと言葉力にあります。

バイトの面接で全然答えられない。いきなり意見を求められて何も答えられない。

いざ大学生になって気づくこと。

これもきっと自分の言葉が足りていないから。

 

 

大学生になったからって別に人との会話は劇的に変化しません。

気を抜いてれば、会話レベルはどんどん落ちていく。

怖いなあ、と思いながら実は大学生の私は日々過ごしてるんです。

流されちゃいけない。今からでも言葉の自己流は保っておかないと。

 

 

もう1つ。

共感力って実はすごいものだと思う。

どれだけ自分の言葉力が向上しても、それに共感をもらえるかはまた別の話。でもどう

せならこの段階を目指したい。「共にできる感情を持たせる力」ってすごいことじゃな

いですか?最早1つの技能になると思う。

それは人間関係においても、きっと将来のお仕事でも。

訓練にゴールは作るべきじゃないけど、目標にするなら絶対これ!とお伝えしたい。

 

 

 

最後の最後に、ほんとに余談なんですが、

私の冒頭のお話にはオチがあって。

 

中学生ぐらいの頃にある本でこんなフレーズを読んだんです。

 

「世の中にはね、書ける側の人間と書けない側の人間がいるんだよ。僕はね、その書けない側の人間なんだ。」

 

ああ、と腑に落ちて。

そうか私書けない側の人間だったんだ。だから書けないのか仕方ない。

 

でもその何年後に今、このような機会を頂いて文章を書かせてもらってます。

まだまだ至らないところがあるのは重々承知なんですが、

それでも自分の言葉で書いてるなあ、っていう実感はあるんです。

 

認識がちょこーっと変わりました。

書ける側の人間ではないかもしれないけど、書けないわけじゃない!

というよりか、訓練次第で書ける側に近寄っていける可能性はあるんじゃないかって思ったんですね。

ああ、怠らないで毎日言葉を使おうって改めて思います。

 

自分の言葉を、自分の表現を、増やすために私もまだまだ精進したいと思います。